第61回(2007年度)ライスボウル特設コラム(10)

 



爆発(explosion) -史上最高のパスゲーム-

QB/WRコーチ  小野 宏


(1)“日本代表”との対決 (5)OLたちの詩 (9)ロジスティックス
(2)二つのノーハドル (6)ショットガンの5年 (10)カズタの物語
(3)人が変わる時 (7)ラン&シュートへの挑戦 (11)後世畏るべし
(4)ゴール前の罠 (8)マネジメント改革  
 
(10)カズタの物語

どん底

 最後に三原雄太(かずた)の物語を記したい。史上最高のパッシングゲームの確立は、三原という選手の成長を抜きにして語れない。
 三原は、関学にほど近い広田小学校で少年野球の投手として好成績を挙げていたが、西宮市立平木中学校(メジャーリーガーの田口壮選手の母校)では3年間で1勝もできなかった。同学年で最後まで残ったのは2人だけ、経験者は自分1人というチームだった。
 関学高等部に入学し、同級生に誘われてフットボール部に入ると、すぐに広瀬慶次郎総監督の目に留まり、QBになった。ボールを投げることには自信があった。野球をしていた頃から強肩で、フォームの美しさを多くの人が誉めてくれていた。
 しかし、経験が必要なポジションであり、試合に出場したのは3年生になってから。先発になり、秋の関西大会を勝ち進んだが、関西大倉高との準決勝で鎖骨を骨折した。以後、1学年下の加納が代役を務め、チームを関西優勝に導いて、クリスマスボウルでも8年ぶりの日本一の立役者となった。三原には優勝したという実感はなかった。
 大学に進学し、三原は骨折から快復して1年生時はスカウトチームで過ごした。高等部で最上級生になった加納も再びクリスマスボウルでチームを率い、V2を果たした。
 2年生になり、加納が大学に入ってきた。当然誰もが後輩には抜かれたくない。
 その5月。東京遠征での明大戦。QBは前半三原、後半加納の起用が決まっていた。結果は三原に残酷なものだった。前半0-0。後半45-6。三原対加納は0-45という結果に終わった。フィールドから青いバックを持ってロッカールームに引き上げる三原は表情すら失っていた。その頬を涙がいく筋もこぼれ落ちていた。翌日から、QBの順位は出原、加納、三原に入れ替わった。三原はスカウトチームに落ち、以後この年は一軍に上がってこなかった。
 3年生の春は、再び同等の条件で2人を起用をした。
 5月。法政と日大に敗戦を喫した。三原も加納もタッチダウンを奪えずじまい。
 加納は前年の秋、帰宅途中に歩いていて横から自転車が突然飛び込んできて膝のじん帯を損傷し、手術をしていた。完治しているはずだったが、違和感が消えずにいた。
 7月。夏のシーズンを前に、三原には一本目にすることを伝えた。「今年負ければ来年は使わない。チームのすべてを背負ってやれ」。私自身もリーグ優勝できなければコーチをやめるつもりでいることを伝えた。
 三原はこの時期、QBだったOB東村(1992年卒)から話を聞く機会があったという。東村は1990年、3年生でエースQBとなったが、シーズン途中で怪我をしてチームは部史上初めてのリーグ6位に落ち込んだ。「3年生でいたらだめだ。4年生のつもりでやる、もだめだ。4年生の上に立つぐらいのつもりでないとチームを勝たせることはできない」。体験者からの忠告は大きな刺激になった。当時のタッチダウン誌には「今年で引退の覚悟。」とこのシーズンに入る抱負を記している。
 今改めて本人に尋ねてみると、一本目を告げられた時は、「正直、当然来たな、と思いました。2年生の秋は自分がうまくなろうという感じはなく、ただスカウトチームで頑張っていただけだった。でも、3年生になって誰よりも練習しているという自信があった。練習だけではなく、ミーティングやオフェンスのことを考える時間も含めてです。誰が俺に文句が言えるのかと思っていましたから。それに、どんなに悪くてもあのどん底より下はないと開き直ってました」。どん底とは、2年生の明治戦である。

「意志」が立つ

 東村からは「合宿をきっかけにしろ」と言われていた。夏の練習に入ってプレーに「意志」が感じられるようになった。この表現はきっと分かりにくいと思うが、このようにしか表現できない変化がある。コーチに言われていることをいくらうまくやっても、それは本当の成長ではない。自分自身が自分自身の頭で考え抜いて、コーチの求める水準ではなく、自分が内発的に求める水準へと向かおうとする「意志」である。それは、QBにとって最も重要な変化の兆しである。
 さまざまな意味でクオーターバッキングのレベルが飛躍的に向上しようとしていた。そしてQBが第一段階として獲得しなければならないコーチや周囲の選手の信頼を合宿で勝ち取ったと思う。パスの技術、パスパターンの理解、パスプレーでのすべきこと、してはいけないこと、そうした理解と判断が上がってきた。そして何よりもチームを率いるという気概がオフェンスに生命を吹き込んでいた。
 リーグ戦も試合ごとに成長した。一つ一つのプレーが肥料であり、その栄養を全部吸い上げて伸びた。しかし、不安も抱えていた。どんな場面だったかは忘れたが、関学の人工芝フィールドでの練習後のリラックスした時間だったように思う。「僕は練習を誰よりもやることには自信がある。でも、試合に強いタイプではないんです。貴生がうらやましい。あいつがなぜあんな風に試合で力を発揮できるのか知りたい」と本音を吐露した。私はその心情が十分理解できた。私もまた、学生時代に同じように考えたことがあったからだ。しかし、同時に私は大試合で力を発揮できるかは、多少性格の差こそあれ大半は試合経験の量によることも長い経験で知っていた。「関京戦、関立戦で最初から活躍した奴を俺は知らない。修羅場を潜り抜けてきた回数の違いだけだ」というようなことを話したように思う。

宙に浮く体験

 しかし、そのことを本人は身を持って体験する。いくら事前に聞いても、スポーツ心理学の助けを借りても、体験しなければ分からないことは分からないのだ。立命戦はスナップファンブルを含めて記録では4回、実際には5回のファンブルを記録した。雨の中とはいえ、ボロボロである。「試合が始まったら足が宙に浮いた感じでこれはやばいと思いました。LBが笑っているのを見てそれを見入ってしまって、あれ俺はカバーも見ないで何を見てんねん、なにしてん・・・そんな感じだったんです」
 しかし、試合は幸運にも勝つことができ、甲子園ボウルでは活躍した。出だしのいくつかのプレーがオプションやシャベルだったが、いずれもピッチが結果的にうまくいかなかった。私が「びびってんのんか!」と有線で直接怒鳴ったら「DEが予想以上に早かったんですよ。びびってなんかいません。僕はちゃんとプレーしてますよ!」と怒鳴り返してきた。
 三原にとって甲子園でのそれからの活躍はご存知のとおりだが、得たものはそれだけではなかった。試合後、タッチダウン誌の企画で法政大学のQB菅原と対談があった。これが三原の目を大きく開かせることになった。
 関学は我々社会人のコーチが毎日練習に来る。戦術的なことはコーチと選手で話し合うが、蓄積している知識や経験が違うのでどうしてもコーチ主導になってしまう。しかし、法政は週末に社会人コーチが来るだけでプレー作りもゲームプランも学生が自分たちでしている。菅原は米国カレッジフットボールのビデオも非常によく見ていて、自分たちでチームを創る楽しさにあふれていた。自分たちもコーチに頼りすぎずできる限り自分たちのフットボールを創りたい。三原がそう考えたのも自然のことだった。
 シーズンが始まる前の期間に、4年生でカレッジフットボールのビデオを見て話し合い、試してみて、コーチにも「こういうプレーをしたい」と持ってきた。
 三原を核にして同じ学年にレシーバーが6人揃ったのも三原には幸運だった。岸、秋山、榊原、萬代、水原、韓。それぞれ個性のある選手たちが練習でも教室でもいろいろな意見をぶつけ合った。ぶつかり合うことで、それぞれがみな違う人間だということを理解するようになり、そのうえで意見の異なる者たちが何を創り上げるかを相談していった。
 このあたりの三原の人間描写はとても面白いのだが、タッチダウン誌がQB・WRらパスユニットのメンバーで座談会をしてくれるというのでここでは触れない。月末に発売される同誌の記事を楽しみにしておいてほしい。
 
2007リーグ戦でパス成功率78.6%、レイティング(パス効率指数)210.86の歴代最高記録を更新した#9QB三原。リーグ最終戦、甲子園ボウル、ライスボウルといったビッグゲームでも成功率70%を上回る安定感を発揮した。磨かれたパス技術だけでなく、オフェンスリーダーとして精神的支柱であり続けた。

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