川口仁「日本アメリカンフットボール史-フットボールとその時代-」

<<前へ 次へ>>
rss

#41 フットボール好日

投稿日時:2010/05/06(木) 21:33

 5月4日は晴天でフットボール日和だった。大阪の高校の決勝と順位決定戦を見にエキスポ・フラッシュ・フィールドに出かけた。母校の豊中高校が3位決定戦に出場するのでそれが主な目的だったが、第1試合の池田高校と高槻高校の5位決定戦から見始めた。豊中は第3試合で第2試合は決勝という順番になっていた。

 池田は第4Qの残り数十秒まで14-13でリード。高槻が攻撃権を得てフィールド・ゴール圏内まで進む。4thダウンになりフィールド・ゴールを選択。
 これが左にそれて池田の勝ちと思ったら黄色のフラッグが落ちていた。池田のオフサイド。高槻が5ヤード進んで再びフィールド・ゴール・トライ。これは決まって劇的な逆転になった。

 第2試合、大阪産業大学高等学校と箕面自由学園高等学校とで決勝。点の取り合いとなり、箕面自由学園が41-34で競り勝った。

 豊中は残念ながら敗れた。前戦の産大高校戦で負傷者が続出し、キャプテンもフィールドにでることができなかった。結果は7-28の敗戦。関西大会までに負傷が癒えるだろうか。

 今大会はタックルをするアメリカンフットボールになった1970年(昭和45年)から数えて40周年で関西大会に大阪から5チームが参加できる。通常の年は3チームである。他の府県も入れ全部で14チーム。京都、滋賀もチーム数がプラスとなる。これまでは10チームが春季の関西大会に出場していた。ノックダウン方式のトーナメントの場合、順位によってシードされるため有利、不利が生じるのでそれだけに今日はどのゲームも緊張感が漂っていた。1970年にアメリカンフットボールになる前、高校はタッチ・フットボールだった。防具の入手が困難な時代であったのと、タッチの方が安全だというのがタッチを採用していた主な理由だった。しかし日本も高度成長時代に入り、防具もそれ以前より入手しやすくなったことにプラス、プレイのレベルが上がりタックル・フットボールの方が負傷が少ないという考えの人が多くなったため、アメリカンフットボールに切り替えられた。ただ、防具のそろわない学校もあったので数年間、タッチの大会も平行して行なわれ、アメリカンフットボールへのリレー・ゾーンが設けられた。

20100506_01.jpg
豊中高校vs学芸高校 豊中#44 QB古角のピッチ・プレイ

#40 第60回長浜ひょうたんボウル

投稿日時:2010/05/03(月) 23:33

 「ひょうたんボウルの日は晴れますのや」と吉川太逸先生(※)はいつもおっしゃる。今年も晴天だった。長浜ボウルは半世紀以上の歴史を重ね甲子園ボウル、ライス・ボウルに次ぎ、3番目の歴史をもっている。最初は長浜市内の中学校の対戦だった。会場も長浜西中学校や高校のグランドの時代もあった。1992年に長浜ドームが完成し、その後はドームが会場となったので晴雨は気にしなくて良いようになったが依然としていつも天気が良い。こうして環境も整ったこともあり、吉川先生ほか関係者の努力で大学の強豪校が対戦するようになった。

 2010年は日本アメリカンフットボール協会の75周年だったのでフットボールへの功労者に対する第3回目の殿堂表彰が行なわれた。吉川先生も選ばれた。今回の殿堂入りでもすでに故人となっている方々も含まれているが、めでたく先生はご自分で式に出席された。1920年(大正9年)のお生まれなので今年で90才である。80才代半ばまで自分で車の運転をされていたが、あるとき、田んぼにつっこみ車が横転してからはご家族の方の意見もあり。もっぱら自転車で移動されている。フットボールの第一線からはすでに引かれているが瓢箪で長浜の町おこしをする愛瓢会では現役の会長さんである。今度九州で開催され皇族にも臨席いただく大きな瓢箪の会にも出席するというお話でその行動力は少しも衰えない。先生のことについてはまた稿を改めて書く予定である。

※ #4 長浜 滋賀県のフットボール を参照

 昨年から会場周辺では両チームのグッズを売るテントの他にフリー・マーケットも参加していて大変ににぎやかで本場アメリカでのゲームの小型版のようになってきた。

20100503_02.jpg


 大学のゲームは立命館大学と日本大学の対戦が昨年に続いて組まれた。日大が昭和20年代前半まだの最下位を低迷していた頃、当時の監督だった竹本君三は1952年から4年計画でチーム強化を図った。その頃は9月にリーグ戦がなかったので実戦を経験するため関西遠征を行なった(※)。関東の大学チームは秋のリーグ戦で対戦するのでゲームを組めなかった。したがって関西遠征になった。相手はまだチーム創部間もない立命館大学、創部8年目の京都大学、そして関西学院大学だった。宿泊費を節約するため2日間で3ゲームをこなした。結果として日大は当時甲子園ボウル2連覇中の関学にそのフィットネスを驚かれるような運動量のあるチームとなった。日大は1955年、4年計画の最終年に甲子園ボウルにおいて関学と、26対26で同点優勝を遂げる。その後、日大と立命の交流戦はとだえていたが昨年半世紀以上を経て復活した。昭和20年代後半は両チームともまだ弱小と言える状況だったが、現在ではご承知のように両チームとも甲子園で何度も優勝する強豪校となった。今回はシーソー・ゲームになり僅差で立命が長浜ボウル二連覇を果たしたが秋になれば日大はパス・ゲームの精度を上げて甲子園を射程圏内に入れてくるだろう。

※ #21~26 日本大学のフットボール参照
«前へ 次へ»

<< 2024年4月 >>

MONTUEWEDTHUFRISATSUN
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        

ブログテーマ