石井晃のKGファイターズコラム「スタンドから」 2010/4

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(3)学生のスポーツ活動

投稿日時:2010/04/13(火) 09:44

 学生のスポーツ活動について考えるとき、いつも思い浮かぶ言葉がある。1946年に制定された日本学生野球憲章の前文である。
 前文では、
 「学生たることの自覚を基礎とし、学生たることを忘れてはわれらの学生野球は成り立ち得ない。勤勉と規律とはつねにわれらと共にあり、怠惰と放縦とに対しては不断に警戒されなければならない。元来野球はスポーツとしてそれ自身、意味と価値とを持つであろう。しかし学生野球としてはそれに止まらず、試合を通じてフェアの精神を体得すること、幸運にも驕らず、悲運にも屈せぬ明朗強靭な情意を涵養すること、いかなる艱難をも凌ぎうる強靭な身体を鍛錬すること、これこそ実にわれらの野球を導く理念でなければならない」と高らかに宣言している。
 野球をアメリカンフットボールという言葉に置き換えてみれば、ファイターズが目指す理念もまったくこの通りであると思う。
 ここはファイターズのホームページではあるが、ことは学生スポーツに共通する問題なので、いましばらく、学生野球憲章の話におつきあい願いたい。
 今年4月に改正、施行された新しい日本学生野球憲章は、1946年の憲章に盛り込まれたこの理念を引き継ぎつつ、冒頭に「国民が等しく教育を受ける権利を持つことは憲法が保障するところであり、学生野球は、この権利を実現すべき学校教育の一環として位置づけられる。この意味で、学生野球は経済的な対価を求めず、心と身体を鍛える場である」と説く。そして、この「教育を受ける権利」を前提とした「教育の一環としての学生野球」という基本的理念に即して、具体的な憲章の条文を構成しているのである。
 憲章がここまで「教育を受ける権利」を強調し、「教育の一環としての学生野球」にこだわるのは、学生野球を取り巻く現実が、この理念からかけ離れて見えるからである。
 例えば東京六大学の構成員であるある名門チームにこんなエピソードがある。その大学の野球部OB会名簿は数年前まで、入学年次で表記されていたそうだ。ライバルチームの名簿は卒業年次でまとめてあるのにどうしたことかといぶかしく思ったその大学の当時の総長は、その理由に思い当たった瞬間、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをしたという。
 つまり、その大学では、入学はしたけれども、まともに授業も受けず、単位をとれないまま卒業できない部員が多いから、卒業生名簿にすると、部員の全体像が把握できない。従って全員の名前が把握できる「入学年次」で名簿を作っていたというのだ。
 そのことに思い至った総長は「総長として、こんなに恥ずかしいことはない。これは自分の責任として、学生に教育を受ける機会を保障し、きちんと卒業させなければならないと思いました」と話された。
 このエピソードに、伝聞や推測は何一つまじっていない。直接、ご本人の口から伺った話である。
 ことは、この名門大学野球部に限らない。似たような例は他の大学、他の競技にもあるのではないか。
 幸いファイターズは、練習時間を工夫し、少なくとも4時限までは授業に出席できるように配慮している。週に1度は練習のない日を設けて、学生生活を豊かにする工夫もしている。
 もちろん厳しい練習やトレーニング、ミーティングなどが日々組まれているから勉学とクラブ活動の両立は簡単ではない。留年する者もいる。しかし、単位が十分に取れていない部員には、特別の対策もとられている。
 鳥内監督をはじめ、コーチやスタッフも全員、部員をフットボール選手として鍛えると同時に、よき社会人として卒業させなければならないという信念に基いて部を運営されている。
 これは、学生スポーツとして当然のことである。
 だからこそ、ファイターズの諸君には、しっかり勉学に励み、その上で日本1になってほしいのである。学生スポーツのあるべき姿を諸君の行動で表現してほしいのである。
 僕がファイターズを懸命に応援する、これが最大の理由である。

(2)ファイターズの「背骨」

投稿日時:2010/04/06(火) 08:46

 「背骨」とは脊柱(せきちゅう)のことであり、岩波の国語辞典は「脊椎動物で、頭骨に続き、中軸となって体を支える仕組み」と説明している。これがしっかりしていることで、人間は立って歩けるようになり、他の動物とは比較にならないほど多くの知恵も獲得できたそうだ。
 ファイターズにとっても事情は同じこと。「背骨」がしっかり通っていることで、チームのモラルは確立され、品格が生まれる。目指すべき目標は明確になり、その目標に向かう求心力も生まれてくる。
 チームに寄り添って過ごしていると、そういう「背骨」の存在を実感する機会にちょくちょく遭遇する。
 4月2日に行われた新チームの礼拝もそのひとつ。これはここ数年、新しい学年の最初の合同練習の日に行われるのが恒例。2003年の夏合宿で亡くなられた平郡雷太氏を偲ぶとともに、シーズンの始まりにあたって、部員全員が心を一つに祈る行事である。当初は、平郡君の記念樹と記念碑のある第3フィールドの高台で行っていたが、最近は部員の数が増えたため、グラウンドの中央で行われている。
 チームの顧問であり、関西学院の宗教総主事でもあった前島宗甫先生がまず「あなた方の中で偉くなりたい者は、みなに仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい」という聖書の一節を読んで、次のような話をされた。
――平郡君は誰よりも熱心にアメフットを極めようとした求道者だった。諸君も求道者であってほしい。平郡君が体現したスピリットを継承し、それぞれの祈り、願い、志を持って、目標を成し遂げよう。
――新しいシーズンの開幕に当たって、もう一度「マスタリー・フォー・サービス」の意味を考えよう。この言葉は隣人・社会・世界に仕えるため、自らがマスターすなわち主人公になって自らを鍛えるという意味である。校歌にある「輝く自由」も、仕えることを選ぶ自由のことを意味しており、だからこそ輝くのである。練習、試合、すべての活動を通じて、自らが主人公となって「マスタリー・フォー・サービス」を習得できますように。
 おおよそ、こういう話だった。ろくにメモもとらずに聞いていたので、細かい言い回しは違っているかもしれないが、先生の説かれる言葉は、しっかり胸にしみこんだ。聞いていた部員たちも「よーし、やったるぞ」と気合が入ったはずである。
 前島先生を囲んでお祈りをする時間は、公式戦の試合前にも必ずある。試合前の練習終了後、キックオフまでのほんの短い時間だが、全員が急いで控室に戻り、そこで先生から心のこもった話を聞き、祈りを捧げる。全員の士気を鼓舞し、チームの結束を図り、戦いの準備を完了するのである。
 儀式といえば儀式である。しかし、こういう極めてスピリチュアルな行為によってチームが一つになり、士気が高まるのも事実である。それは、チャペルの時間が生活にとけ込み、「マスタリー・フォー・サービス」というスクール・モットーがすべての構成員に共有されている関西学院だからこそ、の儀式である。そういう風土に根ざした儀式だからこそ、ファイターズの「背骨」として、チームの中軸を支えているのである。
 こういう「背骨」を大切にしたい。
 どのチームにとっても1日は24時間、1年は365日。練習に費やす時間は限られている。取り組みの内容も、ライバルと目されるチームは、それぞれが工夫を重ね、知恵を絞っている違いない。
 同じように全力を尽くして取り組むのなら、優劣を分けるのは何か。そう考えてい
くと、チームの中軸を支える「背骨」の大切さが分かる。
 お祈りの時間だけではない。品位を大切にする伝統、高いモラル、新しい戦術を導入する柔軟性、熱心なコーチ陣、スタッフを含めて全員が主人公になれるチーム運営……。数えてみると、ファイターズにはいくつもの丈夫な「背骨」がある。これらを大切にし、さらに鍛えていくことだ。そこから「日本1」への道は開ける。
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