川口仁「日本アメリカンフットボール史-フットボールとその時代-」

#38 NEBとU19

投稿日時:2009/07/23(木) 01:16rss

 タイトルの「NEBとU19」を見て、すぐに「ニュー・エラ・ボウル」と「アンダー・ナインティーン」、つまり、先日までアメリカで行われていた19歳以下を出場資格とするジュニア・ワールド・チャンピオンシップ、と理解された人はどのくらいおられるだろう。どの分野にも略号がある。最近ではiPS細胞などがよく知られている。文章は相互理解の上に成り立っている。このブログの対象読者はフットボールのファンであることを前提のひとつにしている。その方々の少なくとも95%以上に理解していただけるように書いているつもりだが、ときどき身内話になっていることにあとで気づくことがある。

 NEBに行くためにバスに乗った。2人掛けの席もかなり空いている。小学校3,4年と思われる子供が2人並んでいる前の席に座った。2人はナゾナゾを出し合っている。一人の子が「長くてつらいものはなぁんだ」と訊く。もう一人の子が、「人生」と応えた。それだけでも2人の顔を見たくなったのだが、その応えについての問題を出した子の返しがちょっとびっくりだった。「短くてもつらい人生があるよ」。

 NEBは観戦ではなく秋から始まる関西学生リーグでの新しい試みを行うための予習を手伝う予定になっていた。しかし、ゲーム開始後まもなく携帯が鳴って、予期せぬミーティングに加わることになった。昨今はどの分野でも大きな変化が起こっている。グーグルがパソコンの分野に参加し、無料のOS提供を始めたので、この分野におけるマイクロ・ソフト寡占の状態が崩れる可能性が出てきた。グーグルはネットブックなどの低価格パソコンがさらに普及し検索頻度が上がることを目的としているのでOSが無料であることはその戦略の1パーツにしか過ぎない。グーグルは書籍をデジタル化することで起きた裁判でもあっさり和解金として1億2500万ドルを支払うことを認めたり、これまでのビジネス世界であれば、企業の死活にかかわるような金額のことがらをいともあっさりとパスして行っている。マクロにものごとをとらえ、グーグルにとってはささいなことに頓着しないという方針が明快だ。このささいなという金額はグーグルにとってであって普通の企業にあてはまるものではないことはいうまでもない。日本企業でも欠陥商品で死者を出した巨大企業が信用を賭して数百億円の支出を認めたことがあった。マイクロ・ソフトの創始者、ビル・ゲイツは自社を超える存在が現れる時が来ることを予測し、また口にもしていた。別の角度から言えば、両社の創設者の出身校、ハーバードとスタンフォードの戦いに持ち込まれた。ただ、まだノロシが上がった段階で実際の商品が市場に出るのは来年半ばとのことなのでどういった影響がでるかはそのあとの話である。

 以前、企業30年説というものがあってどんなビジネス・モデルや発明も30年経てば機能しなくなると言われた時期があった。現状はこのサイクルがさらに早まった。変化しないものは衰退し舞台から去って行くのが現実だ。

 NEBもその前身であった平成ボウルのスタート時の内容から大きく変化している。開催回数が20回を数えたので試みとして行われた部分も歴史となった。開催場所もすでに何度か移った。対戦も最初のものとまったく異なったものになった。当初は単独チームにアメリカのプレーヤーが加わった。現在は関西学生リーグのディビジョン1から3までの全チームを2つに分け、そこから選抜した2チームを母体としてアメリカ人プレーヤーが加わっている。開催場所も替わった。今年の王子スタジアムはその収容力と観客数のバランスがうまくとれた。ゲームもビッグ・プレーが要所にあり、点数も拮抗し盛り上がったようだ。打ち合わせのために試合の大半を見ることができなかったが一週間後以降にCS放送が何回かあるのでミーティングにも集中できた。

 U19のWeb Cast、つまりネットによる動画送信を見る。JAPANの初戦、対ドイツ戦、準決勝のカナダ戦を見ることができた。オン・デマンドなので好きなときから見始めることができる。アクセスがかなりありそうなのだが動画が重くなってフリーズするようなことがない。動画送信にはEZ Streamというインフラを使用していた。Sky・AのKさんからESPNが制作すると聞いていたが、3,4位決定戦、優勝決定戦は違ったようだ。すくなくとも決勝はFOXだった。この2ゲームはストリーミングがなかった。JAPANとメキシコの3,4位決定戦と決勝はライブでと思って夜中に起きたが送信されておらず、この原稿を書いている時点でもまだ流されていない。放送からずっとあとに流すのか、あるいはこの2ゲームの動画送信はないのかも知れない。いずれにしても便利になった。JAPANとドイツ、カナダ戦は1台のカメラで撮っていたが向こうはカメラマンがフットボールに明るいのでほとんどプレーの撮り逃しがない。記憶では一度リバース・プレーにひっかかっていた。しかし、これもある種、カメラがどこまでフェイクにひっかからないか見ているのも面白かった。ロング・パスはさすがに画角の範囲の問題があるので完全について行くのは難しい。しかし、ミドル・パスまではほぼカバーしていた。アナウンスも楽しんでやっているから、そのリラックスした空気が伝わってきて良い雰囲気だった。

 1936年(昭和11年)に全日本の最初のアメリカ遠征が行われた。日本の国際的立場は1931年の満州事変から刻々と悪化し、特にアメリカと袂を分かつのは時間の問題になっていた。日本に留学していた日系二世の立場は微妙だった。前回書いたように全日本は日本人、安藤眉男(立教大学)を除いて全員が明治大学、早稲田大学の各7名を中核とする日系二世だった。一行は選手20名その他に、コーチが明治の武田道朗、役員は川島治雄と朝日新聞社記者で連盟の理事でもある加納克亮の計23名だった。シーズンが終った1936年12月3日に出発した。リーグ戦2年目よりシーズン制が守られ10月に始まって11月末には終了していたからである。その当時は通常であった14日間の航海ののち、アメリカ西海岸に到着した。翌年1937年1月3日、南カリフォルニア高校選抜チームと対戦、6-19の結果を残した。帰国の途はハワイを経由、その地でルーズベルト高校と対戦、0-0と引き分けた。そしておよそ50日後の1月21日に帰国した。アメリカの高校生すなわちU19なので今回のワールド・ジュニア・ワールド・チャンピオンシップのさきがけということもできるだろう。

 あとから振り返ってみればこれが遠征の最後のチャンスだった。帰国した1937年7月、盧溝橋事件が起きた。新聞、雑誌の軍国主義の色がさらに鮮明になり日本の国際社会における孤立化が加速して行った。

 NFLは普及のためのさまざまな試みをトライアル・エラーしつつ行っている。まず、やってみて良い意味での君子豹変を繰り返す。NFLのファームとしての位置づけで、1991年にワールド・リーグをアメリカ、カナダ、ヨーロッパにまたがってスタート。それを引き継ぐかたちでNFLヨーロッパになり、スーパー・ボウルMVPになったカート・ワーナーを代表とするNFLでも活躍するプレーヤーを生み出した。しかし、コスト・パフォーマンスの点から2008年廃止。ジュニア・ワールド・チャンピオンシップの以前にも同じ趣旨の大会があった。今回のアメリカチームはかなり強化され、カレッジの1部リーグ・チームに進学するプレーヤーが36人含まれているということである。ゲーム・スタッツを見れば、攻撃獲得ヤードが408ヤード対49ヤード、カナダのラッシング・ヤードはマイナス8ヤード、従って大会前にシード順位が第1位であったカナダに41-3と快勝したのも当然と言えるだろう。
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