川口仁「日本アメリカンフットボール史-フットボールとその時代-」

#42 さくらんぼの実る頃

投稿日時:2010/05/22(土) 16:03rss

 奥さんが友人からさくらんぼをもらってきた。その人の庭で実を結んだという。スーパー・マーケットや果物屋で扱っているものの半分くらいの大きさだが春の空気が感じられてういういしい。

 昔、西宮球技場が関西のフットボールのメイン会場だった1970年代、1980年代、春の西日本選手権大会の一回戦の頃、球技場での観戦はさくらの花の下だった。季節の移ろいをさくらの花びらが風に舞う光景に感じた。王子スタジアムには土手があるので桜と紅葉を植えてはどうだろうか。春は花見、秋は紅葉狩りというのは興趣があると思う。

 西日本選手権はトーナメント形式で1955年(昭和30年)にはじまった。その前年には日本のアメリカンフットボール20周年の記念事業として東西対抗の西宮ボウルが実施された。この前後、フットボールはターニング・ポイントを迎える。戦前創部の9チームに加え、新しい大学チームが創設され始めた。1953年立命館大学、1955年甲南大学、1956年学習院大学、1957年防衛大学、1959年東京大学、日本体育大学。京都大学はこれに先立ち1947年にすでに創部していた。

 西日本選手権は当時はチーム数が少ないため、ゲームの機会を増やす目的でスタートした。大学4校、元大阪警視庁の選手を中心とした全大阪。現在の大阪府警は昭和20年代大阪警視庁と呼ばれ、1950年から1958年までチームがあった。その他、関西学院大学のOB中心の全神戸、関西大学OB中心の全奈良、池田高校OBらによる池田クラブの8チームが参加した。(※)第一回大会は関学が優勝している。

※『関西アメリカンフットボール史』P.60、p.61参照

 その後西日本選手権大会は、大学、社会人混成で続いたが、1984年、日本選手権の創設に伴い、チーム数の増加もあり、大学、社会人それぞれの大会として独立して運営されるようになった。時が経て、大学、社会人とも春のトーナメントの意味合いが薄れ、ここ数年前から交流戦となった。現在でもトーナメントの形を存続しているのは社会人のグリーン・ボウル・ジュニア・トーナメントのみとなった。このトーナメントは関西のX2リーグに加え、西日本全体、東は金沢、西は九州までをカバーし、普及の役割をはたしている。

 つけ加えれば、20周年記念の1954年、20周年を記して、第1回の西宮ボウルが西宮球場で行われた。西宮球場は1991年西宮スタジアムと改称され、2002年まで関西学生のメイン会場として使用された。西宮ボウルの初期はOBを加えた全関西、全関東の選抜チームの対戦が組まれた。このときは秋のシーズン直前の9月16日に開催されている。

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1980年代 西宮球技場の桜 (撮影 奥田秀樹)
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