プリンストン大学招待記念試合(2001年)交流体験記

プリンストン大学から学んだこと
~戦いと交流を通して~


WR椋木裕貴(2001年総合政策学部卒)



 プリンストン大学(以下プ大)の選手らと初めて顔を合わせたのは、3月19日に神戸三田キャンパスの見学ツアーに同行した時だった。プ大は世界でも屈指の優秀な大学だけに、お堅い人間ばかりではないかと先入観を持っていたが、そんな心配はすぐに消えた。バスの中で自己紹介してからは、皆気さくでノリも良くすぐに溶け込むことができた。

 総合政策学部はネイティブの教員による英語の授業が週に4回あり、毎週のレポートも課せられ、「聞く・話す・書く」能力を磨いてきた。フットボール部では、平成ボウルでも米国選手がチームに合流し、いろいろな交流を経験したが、今回も自分の英語コミュニケーション能力を試す場でもある。

 翌々日は奈良・京都観光に同行した。この日僕はプリンストンの評判どおりの頭脳に衝撃を受けた。まず奈良へ向かうバスの中で、プリンストン大学の日本史の教授(もちろん彼はアメリカ人であるが)に驚かされた。教授なので当たり前なのかもしれないが、古代日本の成り立ちから、幕末明治維新まで、教科書がそのまま頭の中に入っているかのごとくすらすらと説明し、細かい年号まで口から出てくる。学生たちも真剣に話に聞き入り、話が終わるとすぐに何人かが手を挙げ、古代日本と中国の関係や、なぜ京都から東京に遷都としたのか、といった質問を返し、再び教授が論理的に分りやすく答えていた。この光景には感心させられた。日本の修学旅行などでは、いくら先生が話をしたところで生徒はあまり聞いておらず、まして質問などめったにない。それにしても、アメリカ人に日本の歴史を教えてもらうのは不思議な感覚だった。

 このバスの中で僕ははじめてゆっくり選手たちと話をした。卒業後の進路を聞くと、多くは大学院に進むと答えていたが、中にはNASAで働くといった者もいて、さすがだなとつくづく思った。主将のボブ・ファレルは経済学部で、日本の産業保護政策に関心があるようだった。中でも特にNTTの独占状態について意見を求められた。彼は、NTTが独占状態にあるから日本のインターネットはアメリカに比べて高いと主張していた。日本語で返すのも難しいのに更に英語であるため全く参ってしまった。

 今回は交流ばかりではない。プ大は闘わなければならない相手でもある。20日に尼崎陸上競技場でマスコミ向けの合同写真の撮影が行われた。そこで初めて防具姿のプ大選手を間近で見た。とにかく大きい。51人のうち190㌢以上が17人(関学で最も身長の高い選手が190㌢)。特に攻撃ラインのサイズは比べ物にならず、200㌢、150㌔の最巨漢をはじめ、120㌔、130㌔が並ぶ。プ大の所属するアイビー・リーグの各校はスポーツによる奨学金制度を持たず、米国トップの強豪校とは選手の質にかなり差があるのだが、それでも「試合になるかな」と不安だった。

 3月24日、試合当日。卒業式を追えバスに乗り込み、大阪ドームについたのは午後1時ごろだった。十分にアップする時間もなく、キックオフ。僕らははじめかなり緊張していた。そして正直少しびびっていたのかもしれない。彼らのサイズ、スピード、一人くらいでは絶対倒れない強さ、すばやい集まりと激しいタックル。アメリカ人は試合になれば人が変わるというが、まさにそのような感じだった。彼らは必ず我々のQBに反則ぎりぎりで強烈なヒットを与え、また笛が鳴り終わるまでブロックし続けた。改めてフットボールはいくら戦術が進化しても、ヒットやコンタクトの強さで勝負するスポーツなのだと肌で感じた。試合はその後逆転に次ぐ逆転でもつれたが、惜しくも2点差で敗れた。

 個人的にはレシーバーとしてパスも受け、いいブロックをできた。内容のある非常に良いゲームだったので満足している。試合後立食パーティーや、大阪湾クルージングで記念撮影をしたり、同じポジションで仲良くなったバームウォール選手とメールアドレスの交換をしたりした。彼とはこれからも互いに連絡をとり合うつもりである。

 最後に、このようなすばらしい機会を与えてくれた学院、クラブ関係者の方々、そして何より卒業式当日という忙しいスケジュールにもかかわらず応援にきてくれた友人、家族に心から感謝したい。
(「関学ジャーナル」2001年4月号に掲載)

プリンストン大QB14番ダニエルウィッツ選手と筆者(左)